※登場人物は全て仮名です。
板チョコ依存症の日々
デスクの引き出しを開けると、そこには常に板チョコが3枚は入っている。これが私、相沢真琴28歳の生存戦略だった。
月曜の朝イチ会議でクライアントに怒られた時、板チョコ。水曜の残業で終電を逃しそうな時、板チョコ。金曜の夜、一週間を乗り切った自分への労い、やっぱり板チョコ。スーパーの特売で5枚入り398円。このコスパの良さこそが正義だと信じていた。
ある日の昼休み、同期の美咲がランチから戻ってくるなり、小さな紙袋を大切そうにデスクに置いた。
「ねえ真琴、見て見て。今日のご褒美」
紙袋から取り出されたのは、親指の先ほどの小さなチョコレート。ゴールドの包み紙がオフィスの蛍光灯に反射してキラキラと輝いている。
「かわいい。でもそれ一個?お腹空かない?」
私が何気なく言った言葉に、美咲は目を丸くした。
「真琴、まさかご褒美チョコ知らないの」
「ご褒美...チョコ?」
「インスタで超流行ってるじゃん。見て、このハッシュタグ」
美咲が見せてくれたスマホ画面には、宝石のようなチョコレートたちの写真が並んでいた。ハッシュタグ「ご褒美チョコ」の投稿数は50万件を超えている。
「え、こんなに...」
「一粒300円とか500円するんだけど、それがいいの。高いから大切に味わうし、罪悪感もないし。むしろ自分を大事にしてる感じがして、明日も頑張れるんだよね」
その夜、私は初めてインスタで「ご褒美チョコ」を検索した。
画面には次々と美しいチョコレートの写真が流れてくる。「今週も頑張った自分に、リンツのリンドール」「疲れた金曜日。ピエール・マルコリーニで癒される」「月末のご褒美はGODIVAのトリュフ」
みんな、知っていたのか。こんな世界があったことを。
私はふと、自分の手元にある板チョコの袋を見た。すでに半分食べていて、包み紙はくしゃくしゃ。気づけば5枚入りを2日で完食していた。いつも「食べすぎた」という罪悪感とセットだった。
翌日の土曜日、私は意を決してデパートへ向かった。
地下一階、ショコラ売り場。甘い香りが立ち込める空間に、色とりどりのチョコレートが並んでいる。ショーケースの前で、私は完全に硬直した。
「いらっしゃいませ。何かお探しですか」
エレガントな店員さんが声をかけてくれる。
「あの、その...一粒って...」
「はい」
「一個だけ買えるんですか」
なんて恥ずかしい質問をしているんだ、私は。
「もちろんでございます。お好きなものをお選びください」
店員さんは満面の笑みで答えてくれた。
「じゃあ、これ...とこれ...」
指差したのは、ルビーのような赤いチョコレートと、ゴールドの粉がかかったトリュフ。
「かしこまりました。こちらのフランボワーズのガナッシュは当店の人気商品で、こちらのキャラメル・トリュフは新作でございます」
レジで告げられた金額は、2粒で980円。
スーパーなら板チョコが2枚と、飴も買えるじゃないか。そんな思考が一瞬頭をよぎったけれど、私は震える手でクレジットカードを差し出した。
家に帰り、ソファに座る。テーブルの上に、小さな箱を置いた。
まず、フランボワーズのガナッシュを手に取る。赤い輝きが部屋の照明を受けて、本当に宝石みたいだ。
口に入れた瞬間、世界が変わった。
舌の上で、チョコレートがゆっくりと溶けていく。ほのかな酸味と、濃厚なカカオの香り。フランボワーズの果実味が広がって、最後にまろやかな余韻が残る。
これまで私が食べてきたチョコレートは、いったい何だったんだろう。
一粒食べ終わるのに、3分かかった。いや、かけた。大切に、大切に味わった。
そして気づいた。満足していた。たった一粒なのに、心が満たされていた。
次の週、私は金曜日の夜に、また別のチョコレート専門店へ足を運んだ。今度はベルギーのプラリネを一粒。420円。
デスクに戻って、パソコンの横に小さな箱を置く。「今日も一週間頑張ったな、私」そう呟いてから、ゆっくりと包み紙を開く。この儀式が、たまらなく幸せだった。
「真琴、最近なんか雰囲気変わった?」
美咲が声をかけてきた。
「そう?」
「なんていうか、余裕があるっていうか。前はいつもバタバタしてたのに」
私は笑って、引き出しを開けた。そこには板チョコの代わりに、小さなメモが貼ってある。「金曜日まで我慢」
「ご褒美チョコ、始めたんだ」
「え、真琴も!」
美咲が嬉しそうに笑う。
「うん。遅ればせながら」
あれから3ヶ月。私の金曜日は特別な日になった。一週間頑張った自分へ、一粒の宝石を贈る日。
デパ地下の店員さんとも顔馴染みになった。「今週はどれになさいますか」と聞かれるのが、密かな楽しみだ。
そしてインスタには、私も投稿するようになった。
「今週のご褒美は、パリの老舗ショコラティエの季節限定。栗のプラリネ。一粒に秋が詰まってる。ハッシュタグご褒美チョコ、ハッシュタグ金曜日の贅沢」
コメントには「素敵」「私も買いに行きます」という言葉が並ぶ。
ふと思う。私が遅れて気づいたこの世界には、もっと大切なことが隠れていた。
それは、自分を大切にする方法。
量じゃなくて、質。たくさん食べて罪悪感を持つんじゃなくて、少しを大事に味わって幸せになる。
一粒500円のチョコレートは、単なる贅沢品じゃなかった。それは「私は頑張っている」「私には価値がある」と自分に言い聞かせるための、小さくて確かな証だった。
今日も金曜日。デスクの引き出しには、明日のための一粒が、静かに私を待っている。